韓国における「日本学習」は、大別すれば、教育的ナショナリズムという「停止の論理」に基づいて行われている側面と、教育的グローベリズムという「変化の論理」を取り入れようとする側面を合わせもっている。 「停止の論理」-ナショナリズムは、悪い過去をもち、それに責任を負うべき日本を教えようとする。変わりつつある今の日本ではなく、変えざるべからず過去の日本を教えることによって民族・国家意識を変めることができるという信念が働いている。この立場に立つ日本学習の論理は停止の文化として定着したまま変化を拒み、結局、客体-異文化としての日本の学習を困難なものにしてしまう。 「変化の論理」-グローバリズムは、国際化という変化の中で、国際理解・異文化理解を求める「主張」に基づいている。従って、この論理に立った日本学習のあり方や方法は具体的に示されておらず、当為論になってしまう可能性も有する。韓国における日本学習は、ナショナリズムとの葛藤の中でグローバリズムの方向を模索していると見られるが、今のところ、グローバリズムはまだ当為論の域を超えていない。 韓国には、上の両極論理の理念や当為を超えて、力強く日本学習を変化させ始めているエネルギーがある。日常生活の中で「日本」を体験している子ども達が日本学習を変えつつあるのである。学校教育が子どもを変える力の限界を見せており、子どもが学校教育を変えているリベラルな風景が、韓国における日本学習の場に見られると言えよう。
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