研究概要 |
日本の公害経験に関する調査としては,1960年代から70年代にかけて国及び地方公共団体の公害対策の一線で活躍された方々へヒアリング調査を行った。具体的には,厚生省,通商産業省,横浜市,北九州市における当時の担当職員である。これらから,1970年の公害国会前後における政府部内での意思決定のメカニズムが明らかになりつつある。日本の大気汚染対策に結果的に最も大きく貢献したのは重油の低硫黄化であるが,これの実施にあたっては,通商産業省と厚生省が水面下である種の連携を保っていた。省庁間の協議が,施策の実効性を担保した具体例として注目できる。 一方,当時,地方公共団体が公害対策の「切り札」として用いた公害防止協定は,各地の政治的,経済的状況により,性格や内容,位置付けが異なることが明らかになった。横浜市と北九州市の協定を比較すると,締約にあたっての協議の仕方,透明性,締結後の協定の運用方法などが対照的である。 7月には,タイの石炭火力発電所を訪問し,東南アジアで始めて設置された排煙脱硫装置の運用状況及びそれが設置されるに至った背景について調査した。本発電所は,高硫黄の石炭を山元の盆地で焚くという悪条件下にあったため,硫黄酸化物による汚染が顕在化した。このため,政府は排煙脱硫装置の設置を決定し,円借款等,海外からの支援を得て建設を行った。現在,10機ある発電機に設置された排煙脱硫装置は順調に稼動しており,周辺環境のモニタリング結果もこれを裏付けるものとなっている。 さらに,平成11年度に現地調査を行ったフィリピンの石炭火力発電所の事例を元に,環境影響評価の課題を指摘し,論文として発表した。
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