研究概要 |
オリゲネスにおける神の人格性の問題を巡って、ピリピ書のケノーシス(2;5-9)に対する彼の解釈を、その引用、言及箇所(158箇所)をもとに研究した。 彼の解釈の特徴は二章七節以下を「神であるにもかかわらず、人間になった」と反語的に解釈せず、むしろ連続的に捉えていることである。確かに受肉は驚異であり、一種の矛盾のようにこの聖句が解釈されることはある。しかしいくつかの注目すべきテキストで彼はロゴスの神性と人間生成との間に矛盾を認めていない。即ち「神であるにもかかわらず、人間になった」のではなく、むしろ「神でありつつ、人間になった」、更に「神であるから、人間になった」(存在の論理)と理解する。即ち神的存在と人間生成とは一致する。神は「実体において不変であるので、摂理と経綸から人間的事象にあわせて下降した」(CCels,4.14)。神は実体において不変であるが故に、人間へと生成したというのがその解釈の基本である。 ここで、受肉が直接には「イエスの魂」についてであり、ロゴスについては間接的にのみ語られるとする解釈はオリゲネスの思想のダイナミズムを見損なっている。「イエスの魂」は人間論的視座から導入されており、決して受肉の整合性を説明するためではない。この聖句を解釈しつつオリゲネスは受肉についてその原因として神の人類愛を挙げ、人間の救済が目的であったとする。従ってここで神的存在は愛の主体として捉えられる。神のウーシアとは主体的存在であり、神はこの生成において「神である」ことを失わない。神的存在をその述語的本質規定からではなく、自由な主体性から理解したところに、ケルソス等のギリシャ的神観に対するオリゲネスのキリスト教的神観の独自性が認められ、ここに神の人格性の思想が現れている。 なお、本研究は独語で論文を執筆し(Kenosis und das Sein des Gottes)、目下のところ投稿中である。
|