ウェーバー宗教社会学のキーワードのひとつである「神義論(Theodizee)」という概念は、たしかに善悪と幸不幸との対応関係の解釈を内容上の核としているのであるが、その「内容」はいわば「神義論」の結果であって、ウェーバーの「神義論」はむしろ、宗教的理念と現実の有り様との不整合一般に何らかの解釈をもたらしていく運動・ダイナミズムという側面を根幹としている。「神義論」のこの「運動(生成)」の側面に着目し、そうした「神義論」を日本の諸思想の中に探ってみた。しかし、日本の諸思想の中でそのようなダイナミズムは、ユダヤ-キリスト教史でウェーバーがありありと描いてみせたような形では顕在化していない。では、なにゆえにこのダイナミズムが見えにくいのか、という問いを立ててみた。「神義論」のダイナミズムが日本の諸思想のもとに見えにくいことの理由は日本の諸思想自体の特質にあるはずである。 完全なる神が創造したこの世界や人間は不完全な被造物にすぎないという、この世界に対する神の関与と神からのこの世界の断絶、という二つの側面が、キリスト教において、"「善」なる神がつくったはずのこの世界に「悪」があるのは何故か"という「神義論」の大前提となっていた。しかし、たとえば『古事記』神話の神は世界を無から創造した神ではないことに象徴されるように、この世界とは断絶した完全なる理念の世界を想定して、それと現実とのギャップを固持する発想が日本の諸思想にはあまりなかったのではあるまいか。現実と断絶した理念の世界を前提していたのが仏教だが、この断絶を実は通底・相即するものへと捉え直す着想が或る意味で日本仏教の真骨頂だった(天台本覚思想や親鸞の場合)。西田幾多郎が神を自己否定において「悪魔的世界」にも自己を翻しうるものと説いたのもその発想の延長線上だといえよう。
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