本年度は、フィリピン・ビサヤ地方での現地調査をふまえ、島嶼間移動によって生起する社会的知識の多層性について、調査研究を実施した。フィリピンにあっては、ビサヤ漁民の季節的移動、新住地をもとめての移動などがさかんにおこなわれ、親族間での移動の連鎖がみられることが、従来の研究において指摘されてきた。調査地として選定したパナイ島ボトタン町ボンコ村は、内陸部の農村地帯であるが、セブ州バンタヤン島からの商人の活動が確認された。彼らはバンタヤンで製造される干物を売り、フィリピン第二の穀倉地であるパナイ島から米を買い付けるわけであるが、預金残額の少ない自分の銀行口座の小切手で取り引きするという詐欺まがいのやり口を常套手段としていたようである。いっぽう稲作のさかんなボトタン町では、稲作と米穀販売にたずさわる中間業者を数多く生み、このような生業にたずさわる者の生活知識として、どの商人が信頼でき誰が疑わしいかなどの情報を集積させることが重要であったわけである。また、ボンコ村周辺でおこなわれていた物々交換経済の様態についても明らかになったが、島嶼間の行商にしても、このような物々交換の志向がその基盤要因としてあったことが想定できる。 また、とくに呪術のような特殊な知識にあっては、移動にまつわる知識の生成という主題が端的に提示されることも確認できる。ビサヤ地方には、呪術師を多く排出する島、精霊の住む島などに関する豊富な伝承がある。このような伝承知識は、ビサヤ地方の各地で常に再生産される呪術師にとっては切り離すことのできないものである。呪術師になろうとする者は多く、島外に出て広範にひろがった呪術知識をオリジナル・ブレンドで集積するのである。その際に、呪力がとくに高いとされる呪術師を多く輩出する島への「遠征」が重要な意味を持つ。他所でのさまざまな経験の語りは、帰島後の本人の呪力の信憑性を醸し出す重要な要因となるのである。また調査中、呪術の交換を求めてくる呪術師がいた。それは他所者同士の呪術師がお互いにもっている呪術を交換しあって、それぞれが自分の呪術知識のストックを増やすという方式である。このようなやりとりは、移動による知識生成の端的な事例であると言えよう。
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