本年度の研究では、昨年度に行った、貴族院勅選議員の推薦系統、前職及び兼職に関するデータ化とその議会活動の特色との関連に関する考察、有爵議員の政治思想に関する考察をまとめ、さらに、明治期の貴族院の全体的把握を行った。この結果、初期議会の貴族院についての「藩閥政府の防御線」との通説的評価の問題点を見いだし、この時期の貴族院内派閥状況は、第一次山県有朋内閣及び第一次松方正義内閣期において、内閣の貴族院対策は不十分で、藩閥政府擁護の勢力が、貴族院内で藩閥政府に対抗しようとする谷干城や近衛篤麿に率いられた懇話会や三曜会と言った会派を凌駕するには至っていないことを示した。また、貴族院が藩閥政府の利益を代弁していた証左とされる衆議院の「民力休養」論に対する反対についても、これを藩閥政府の利益擁護とは別次元の「国家優先の理念」による反対であったことを示した。また、第二次伊藤博文内閣の自由党との提携や憲政党内閣の成立に見る政党の進出以後の貴族院に対する評価として「山県閥の貴族院支配」それによって衆議院政党を掣肘する「藩閥政府の牙城」化が通説となっているが、それについても再検討した。本論では、この時期の貴族院について「自立」から「自制」に向かう過程として描き、貴族院の明治末年近くに成立した会派研究会の三島弥太郎支配体制と幸倶楽部二派の平田東助・十金会体制の確立は、貴族院の「自立」化を抑制し、衆議院との妥協を導く機能を果たしたことを明らかにした。また、貴族院議員活動の有機的理解のために貴族院の指導的議員谷干城の持つ対外観・外交論について分析・検討した。
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