近世『うつほ物語』注釈史に関して、以下のような研究成果を得たので、ここに報告する。 1.空物語二阿鈔は二つの奥書を持つので目録部と注釈部とに分けてその内容を吟味する必要がある。玉琴の「巻々の大旨」と対照した結果、目録部は、文章に未整理な部分が多いなど、草稿と言ってよい内容であることがわかった。注釈部もまた覚書と言ってよく、明阿本の校訂注・語釈を転写した谷真潮本と対照してみた結果、二阿鈔では、明阿注の一部を要約している箇所がしばしばある。加えて、真潮本からは真潮注はもとより二阿鈔に漏れた明阿注、具体的には絵詞の指摘など、が確認できる。 2.近世末期にうつほの注釈が盛んになった理由に、明阿本の出現が挙げられる。真潮本のほか、忠憲本によって明阿注受容の様相を確認した。大久保本うつほ物語考証は、忠憲本から伴直方が頭注を抄出したものに岡本保孝が清水浜臣の注を増補して成立したと奥書からわかるが、内容を対照したところ、忠憲本の内容を伝える部分は多くなかった。 3.さらに、明阿・春海・浜臣の三人の書き入れを写した浜臣旧蔵書二本を対照したところ、刈谷図書館本にない書き入れが長憲本では多数確認された。] 4.近世『うつほ物語』注釈史を俯瞰するためには、やはり山岡明阿を基点とするのがよく、明阿から浜臣への流れに対して、貞雄の注釈をその外側に、どのように位置づけるかが一つのポイントとなる。明阿本借覧の時期が玉琴刊行の直前であったこと、そして二阿鈔に数多くの埋めるべき空白、未解決の問題点が存していること、これらの事柄は、自身の研究に向ける内なる眼差しと外界の研究状況に関心を払わずにいられない貞雄の微妙な心理を表すとともに、彼の注釈史上の位置をも示している。
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