平成11年度は、19世紀後半のイギリス文学における大衆像の形成を研究するための予備作業として、同時代の様々な資料(新聞・雑誌、広告の図像など)を収集し、検討を行った。その結果、当時のメディアの中で描き出される大衆のイメージがステレオタイプ化されていくのが窺える。その中で、20世紀につながる二つの類型に注目してみたい。一つは、大衆を機械と捉える視点である。一例を示そう。1851年クリスタル・パレスで開かれた万国博覧会は、これまで主として博覧会の建物や展示物から論じられてきた。しかし、半年の会期中に英国はもちろん世界各国からの観光客を招いたこの博覧会で一番のスペクタクルは、群れなして訪れる観客それ自体ではなかったろうか。鉄道によって会場まで運ばれ、鉄とガラスでできた建築物に吸い込まれていく群集の姿は、彼らを個人の集合としてではなく、機械の一部と見なす観点を生んだ。当時の大衆像は、一方で女性のイメージでも語られている。曰く、大衆は感情的だ、主体性がない、等々。これらはいずれも当時の(とりわけ医学の)言説が女性を定義する仕方だった。19世紀後半になるに従い、大衆文化が消費文化と同義になると、消費の中心である女性と大衆との同一視はいっそう進むことになる。以上の他に、当時のメディアでは植民地の原住民が、大衆を語るのと同じ語彙で語られているのも顕著な特徴として目に付いた。女性、植民地、機械に代表される近代社会-これらのイメージが大衆論の中に不可分に絡み合って、後期ヴィクトリア朝の言説空間を作っていた。次年度は当時の文学作品が、こうした大衆像をどのように再生産し、時に裏切っていたかを検討する予定である。
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