1.18世紀末・19世紀初頭に関しては予定通り論文を完成し、「近世末北西ドイツの下層人口問題と村落社会」として学会誌に投稿し、採用となった。そこでは以下のことが解明された:18世紀末の北西ドイツ・オスナブリュック司教領において、それまでの下層民の増加・堆積の結果、農村部に広範な困窮問題が生じ、それまでの比較的ルーズな定住管理に対する領邦政府の介入が生じ、これらに農民たちが対応する中で新たな定住管理体制が創出された。それによって19世紀初頭までに農民集団としてのゲマインデと下層民との対峙という社会的構図が成立し村落社会秩序の近代的な再編が開始された。 2.三月前期のハノーファー王国については、以下の成果を得た。(1)ハノーファー王国の定住・結婚規制法は1827年に成立しているが、これは他の領邦に比べて早い。その背景にはハノーファーにおいては、1820年代には下層民の増加・堆積がもつ危険性と、ゲマインデを基礎にしたその扶助の管理機構として定住管理制度の整備の必要が認識されていたためであった。(2)文書館での調査では、予定していたベルゼンブリュック管区の他に二管区で体系的に史料が残されていることが判明し、定住・結婚規制の実態に関する重要文書を収集した。現在分析中であるが、法規定とは異なり、下層民の定住・結婚に対するに対するゲマインデの影響力が大きいように思われる。(3)三月革命期以降、こうした定住・管理に下層民も参加する行政委員会が関与しており、下層民の一部が定住管理体制に統合されていたという事実も判明した。(4)当該時期の農村部の人口変動を確定し、それによると人口の停滞・減少での定住・結婚規制という意外な側面が判明した。このことは旧来のイメージとは全く異なり、この時期の定住・結婚規制の意味そのものに関わりかねない重大な事実であり、定住・結婚規制が人口増加に対する対応ではなく、下層民の管理=支配のテクノロジーだったという意味をもつと考えられる。
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