研究概要 |
本研究の一環として,本年度には長野県諏訪郡の製糸家が1900年に設立した「諏訪製糸同盟」の機能を分析した.その最大の特徴は「工女登録制度」にあった.諏訪製糸同盟事務所に加盟製糸家の使用する工男女の全てを登録することが定められ,工女は正当な使用権を有する製糸家の「権利工女」として同定されたのである.従来の研究は,諏訪製糸同盟の主な目的と効果は工女の工場移動の抑止にあると考えてきた.しかし,本研究によって,その最も重要な機能は,製糸家の雇用する工女が工場を移動する際の製糸家間における取引費用を縮小する,取引制度としてのそれにあったことが解明された.従来の見解が依拠する伝統的な経済史学に立脚する産業革命研究は経済発展と制度の効率性との関係を自覚的に考察してはこなかった.これに対して,新制度学派の経済史学は司法制度による所有権の保護と経済発展との関係を分析し,あるいは取引費用の経済学は取引費用の観点から主に私的な制度の分析に成果をあげてきた.また,制度を経済主体が自律執行的(self-enforcing)に従う行動制約として捉える歴史制度分析も主に私的な制度の形成過程の分析に成果をあげてきた.本研究もそれらを前提として諏訪製糸同盟のの分析を行ったが,その際,私的な制度と公的な制度との関わりに注目したことが,それらの諸学派に対する本研究の重要な独自性を構成している.司法制度の確立した近代以降の経済史を分析する際には,司法や行政が執行を担保する公的な制度と,自律執行的な私的制度との関係を考察することが重要であろう.新制度学派の経済史学が明らかにしてきたように,近代以降の経済発展が司法制度による所有権保護を前提とすることに議論の余地はない.しかし,近代以降においても私的な取引制度がしばしば重要な意味を持ったことも否定できない.それゆえ,工女の取引という特定の取引が私的な制度によって統治された理由を公的な司法制度の限界との関わりにおいて分析したのである.
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