遺構調査については、約300万m^2の山塊に残る遺構を8区に分け、7区の実測調査を終えた。結果は1/1000の「縄張り図」に作製した。当初、小早川氏による織豊系の縄張り技術を用いた改修痕跡を井楼山地区(城塞群中枢部)で確認していたが、それが更に広範囲に及ぶことを確認した。具体的には、小津婦良地区で外枡形虎口・登石垣、松尾山地区で横矢掛りを確認した。小早川氏は筑前入国(天正15年6月)した8ヶ月後(同16年2月)に居城名嶋の築城を始めており、入国当初から名嶋城築城の準備が為されていたと推定されるため、学界では小早川氏の立花山入城は"腰掛け"的なものと考えられ、全く注目されることはなかった。一般に豊臣系大名が新封地に居城を構築する場合、その間の当座の措置として戦国期の城郭に入城することが多い。その際、織豊系の縄張り技術を駆使した積極的な改修は全く行われない(黒田氏の馬嶽入城)か、或は主郭の一部に限られることが殆んどである。しかし本調査で、織豊系の縄張り技術を用いた改修が広範囲に及ぶ究めて積極的なものであること、しかも、そこには倭城群(朝鮮役で豊臣軍が構築した城郭群)に先行する当時の最先端技術(重層する外枡形虎口、登石垣)が使用されていることを確認したことで、立花山城塞群が持つ歴史的意味が看過できない重大なものであることが明白となった。即ち、立花山城塞群の大改修は、豊臣政権が朝鮮役の兵站基地に予定した筑前国を特別重点統治地域とすべく、強力な梃入れの下に博多復興とセットで行った国家的事業であったことが指摘できる。そして傍証として、家譜関係史料(『黒田家譜』・『歴代鎮西志』・『甫庵太閤記』等)から、立花山改修が秀吉の御意により諸家の合力を得て行われたこと、入国早々の村上武吉宛(天正15年7月24日付)「小早川隆景書状」から、立花山城普請が音信も取れないほどの突貫普請で行われた、ことを記す記事を採取した。以上が11年度の研究成果である。
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