近代美術史における文部省美術展覧会(文展)の開設の重要性はつとに指摘されているが、それによって生じた観衆像の変化については、従来十分な考察が加えられたとは言い難い。本研究は、史料によっては捉えがたい観衆にアプローチするひとつの方法として、より一般的な受容について吟味するものである。つまり、専門家の発言であるとしても、そこに受容者の視点が反映されていることに注目する。また、批評に対する批評、つまりメタ批評についても、その範囲で検証する。 開設の年明治40(1907)年に開催された東京勧業博覧会が美術館を設けただけでなく、審査と授賞をめぐって物議を醸したことにより、新聞雑誌に広く取り上げられ、その結果「美術」という社会活動が広く社会の耳目を引くことになったといわれる。実際に、読売新聞の投書欄を調べると、美術館に関する投書が4通に1通の割で取り上げられている。また、東京勧業博美術館への着目は、単に作品だけでなく、どのように見せるかという展示法への意識を高めることになった。これもまた観衆という意識なしには成立しない言説といえる。文展は成功したと評価され、新聞雑誌でもそう喧伝された。しかし、実際に記事にあたってみると、その内実はあいまいであった。たとえば、具体的にその入場者数について報じているのは希であった。むしろ、日本画における新旧対立において、日本美術協会における展示と文展会場との顕著な相違が、文展における成功という印象に寄与していることは疑いない。つまり、展示からの判断であり、その事実はきわめて示唆的といわねばならない。
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