三年計画の本研究の二年度目にあたる今年度は、当初の予定では言語計算系と遺伝暗号系のアナロジーを手掛かりにしての生物言語学の構想をたてることにあてるはずであったが、結果的にはより言語理論内部の諸問題の整理に研究が限定され、当初の計画は次年度の課題として残さざるを得なくなった。 本年度に取り上げた問題は大きく分けて(1)経済性・最適性の概念の見直し、(2)モジュール文法観の再検討、の2点である。(1)は、人間言語の普遍的特性として考えられている(派生の)経済性が、言語内に実働する原理原則というより単に表面的な現象であって、その説明はさらに深いレベルでの考察を要する、という洞察に集約される。構造構築の過程でプローブの素性Pが一致すべきゴール素性Giを検出・決定するあり方は、他の潜在的素性(Gi≠1との相対的比較によるのではなく、最初からGiのみを検出する仕組みが言語に備わっているからであろう。その仕組みに関わる媒介変数的相違は、ゴール側の活性要因である「解釈不可能な素性」たとえば名詞類における格素性の異なるふるまいに起因すると考えられる。同じ構造環境[P...[[...Gi...Gj...]]]のもとで、PがGiを検出するタイプの言語とGjを検出するタイプの言語との相違は、Gの格構成とりわけD固有格である構造格の有無が異なると考えることにより、いわゆる機能範疇媒介変数化の仮説に沿う形で説明される。経済性原理はその目的論的性格ゆえに決定的な科学的説明にはなり得ないのであって、これを排除する一つの可能性を示唆したことになる。 (2)については、そもそもモジュール文法観とは、理論展開のある段階での作業の効率化のために採られた研究戦略に過ぎないと考え、各モジュールの特性とそれらの間の余剰性が明らかになった現在、諸モジュールを可能な限り統廃合することによって最もエレガントな文法モデルが得られるという見通しを立てた。本研究や同研究者の先行研究ではとりわけ、長らく語彙部門と統語部門の間に設けられてきた隔たりを撤廃し、前者を後者に吸収することで前者の最大簡潔化をはかることに重点が置かれているが、これは言語進化に関して断続平衡理論と親和性を持つ生成理論の、人間言語の創発的成立が統語能力の出現によって一気に起こったという考え方に合致するものでもあり、本研究の目指す生命科学の一分野としての言語学の企てへの進化論的アプローチにとってもこの脱モジュール化の視点が重要な意味を持つものと思われる。
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