カナダは連邦成立(1867年)後も、旧宗主国であるイギリス、フランスにそのアイデンティティを頼っていた。現在のカエデの国旗の制定に象徴されるように、カナダ人としての民族意識が顕著になるのは1960年代に入ってからなのである。 ところで、文学において、民族意識を高らかに唄う叙事詩的な作品はこの時代見あたらない。そこに見られるのは、むしろ集団意識からの脱却の試みであろう。例えば、M.アトウッドの『食べられる女』では、主人公である女性の男性からの自立が問題になっている。また、J.ゴドブーの『やぁ、ガラルノー』においては、主人公の青年の精神的成長が独白によって語られている。自給自足的な社会が、近代化に伴い市場経済に移行するとき、他の社会との接触が重要性を増し、世界内存在としての意識が強まるとするならば、個人のアイデンティティの問題と民族のアイデンティティの問題が通底していることは当然であろう。カナダでは、英仏二大建国民族の存在が、それぞれ異なる記憶を醸成し、国民国家としてのアイデンティティを希薄にしていただけに、閉鎖的社会から解放されようとする個人は新たな社会での身の置き場に苦渋しているように見える。M.ローレンス『石の天使』の老婆へイガーやG.ロワ『束の間の幸福』の母ロザンナのように運命に逆らって自由になろうとしても悲劇が待ちかまえているだけかもしれないのである。しかし、もはや集団意識にしがみついていることはできない。M.トランブレー『義姉妹』は集団性を見事に風刺している。現実のあるがままの自分たちの姿を見つめ、こうした一連の作品に見られる滑稽さを自分たちのものとして引き受けていく姿勢がこの時代のカナダ文学の一つの特徴であると考えられる。
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