九州北部に於ける近世社寺建築大工の足跡と作風としては次の結果を得た。 1.棟梁東秀蔵:臼杵市に在住した大工棟梁東秀蔵は明治17年八幡社神殿、同28年大野神社神殿、同29年福良天満宮神殿(いずれも臼杵市内)を棟梁として建立した。 作風は、第1に諸折り桟唐戸を正面にたてること、第2に一間社流造にもかかわらず、背面に角柱の中柱をたて2間にすること、第3に妻飾りに虹梁大瓶束笈形付きを用いることなどである。 2.棟梁棟為幸:臼杵市居住の大工棟梁棟為幸は昭和9年2月5日生まれの67歳である。27歳の昭和36年、大工棟梁首藤卯一(平成9年死亡)のもとで3年間修行し、宮大工の技術を覚えた。その後、某造船会社に勤めながら、宮大工の仕事があれば勤務先の許可を得て請負をした。 明治30年建立の御霊社神殿の修理、天保15年の古材を再利用して、平成6年に新築した天満社神殿(いずれも臼杵市内)がある。 天満社神殿は倒壊による再建神殿であるが、向拝に新材を使用せざるを得なかったためと、基壇・基礎をしっかりさせて大幅に変更したため、身舎に台輪を入れて高さ調節をしたこと、切目縁桁下に指肘木を新たに入れて処理し、旧式をできるだけ保った。 3.棟梁石丸助七:国東町富来居住の大工棟梁石丸助七は、元禄16年(1703)に同町櫛木社本殿、享保12年(1727)に安岐町歳神社神殿を建立した。その作風は各柱間内に凹みを付けた長押状台輪を用いる、二手先斗〓に軒支輪、擬宝珠柱高欄、地長押又は土台を身舎と向拝に用い、向拝は連三斗、中備に本蟇股を配し、海老虹梁が茨垂木状かつ込〓束を用い、木鼻の種類が多いことである。 4.立川流の一間社入母屋造りの水割書を発見し、翻刻した。 5.府内藩大工利光家文書を翻刻し、脚注を付けた結果、永禄3年(1560)から明治23年まで、330年間の大工利光家の足跡が判明した。
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