本年度の研究目的は、(1)北宋末・徽宗朝における政治状況の研究と、(2)皇帝の詔獄制度に関する研究の二つであった。 まず(1)に関しては、多くの準備が調ったあと突然中止された徽宗朝の封禅計画について考察した。結果その政治的背景には、国家の礼制をめぐる徽宗と蔡京の考えの違いが存在していた。徽宗にとってすでに価値を見いださない封禅儀礼を、逆に蔡京が強行しようとしたことから、徽宗は目指すべき政権像が異なってしまっていることを痛感し、蔡京への政権委付の可能性を放棄したのだった。よってこの封禅計画の中止は、徽宗即位以来、断続的に続いてきた蔡京政権との訣別を象徴する出来事であった。 (2)については、北宋後半の陳正彙の獄にっいて検討した。その結果、制度外の制度と言える詔獄は、非常に高度な政治判断を含んでおり、そのような詔獄の理解には、一般的な制度的側面と、当時いかなる政治状況であったかという政治的側面との両方からアプローチしなければならないことを指摘した。 さらに、これまでの宋代「君主独裁制」についての研究を総括し、著書としてまとめた。従来の宋代「君主独裁制」は、皇帝が政治的主体性を放棄し、これを士大夫ら科挙官僚に委ねる「士大夫政治」と表裏一体の制度であり、皇帝は受動的君主であった。これが第六代神宗のときには、神宗がみずから政治的主体性を発揮し、前面に出て新法政策を継続した。これは「君主独裁制」ではなく「皇帝親政」体制であった。以降の君主は、宋初太宗に始まる「祖宗の法」を受け継ぐのか、神宗の「親政」体制を受け継ぐ(「紹述」)のかの選択を迫られた。そこに登場したのが徽宗であった。徽宗はやがて新法政策を「紹述」することを目指し、それは結局、皇帝「親政」体制への移行を探るということを意味していた。したがって徽宗朝の研究こそが、宋代「君主独裁制」研究のために重要であることを指摘した。
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