研究業績の一つは、アイヌ語学上、各方言において古くから問題となって来たわたり音の問題について、これまで各方言についてなされてきた所説を逐一検討し、さらに実地調査で得られた新しいデータを加えて、その解釈、意義について、新しい考え方を提唱したことがあげられる。なお、データの分析に際し、解釈の客観性を高めるため、サウンドスペクトログラフによる音声分折を行い、その結果を検証に用いた。その結果、少なくともいくつかのアイヌ語方言においては、問題の音は、類似の環境における単なる「わたり」に比して明白に長い持続を持ち、したがって、音声学的には、その調音のために調音器官が独立の運動をなす単音と認めるべき可能性が高いことが明らかになった。このことによって、同じ音声的環境でゼロと対立し、しかもその出現が、音声的条件ではなく、形態的な条件によって規定されていることを明らかにし、従来の記述とは異なり、問題の音を独立の音素と記述すべき点を論じた。 もう一つの研究業績としては、厳密な意味で英雄叙事詩を記した最古と思われる文献について、書誌的、言語学的な分析を行い、成立年代、記録されている方言について、確証となる事実を明らかにした点があげられる。中でも刊行されたアイヌ語辞書としては世界最古とされる上原熊治郎『もしほ草』のテキストに出典があることを初めて立証した点は研究上大きな発見と言える。また、現代のアイヌ語諸方言においては極めて例外的とされている自動詞の他動詞活用がこの最古のテキストにも既にみられ、この現象が単なる誤用ではなく、動作主格的な文法カテゴリーが古くアイヌ語にもあったことを示すものではないか、という推論を述べた。
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