われわれは、日常的に、直接実在論的視点から、様々な経験的対象を扱っている。ところが、その経験的対象とそれに対するわれわれの知覚に関して、ある種の「自然学」的疑問が生じる。そして、それらの疑問を解決する一つの策として、ロックの場合、一次性質とそれに基づく能力のみを備えた物そのものが、仮説的に措定されることになる。ところが、一旦ものそのものが新たに措定されると、物としての実在性は、経験的対象から物そのものに移譲されるので、経験的対象を「物」と呼び続けるのは、厳密には不適切であることになる。そこで、厳密な議論をしようとする際には、経験的対象及びその諸性質に対して、別の呼び方が必要となるが、そこでロックが使用したのが、「観念」という言葉であった。こうして、もともと外的な存在であった経験的対象とその諸性質は、物そのものがその向こう側に措定されるに及んで、内的な「観念」として、他の内的なものとともに、心の内なる観念の世界に位置づけ直されることになる。こうして、物そのもの、観念、心からなる、ロックの三項関係的観念説の自然主義的枠組みが、形成される。 バークリの観念論は、ロックの観念説の自然主義的論理に依存しながら、二重の意味で、それを「歪ませる」ことによって形成されているとみることができる。まず、彼の観念論はその前提を結果的に否定しており、その意味で、それは矛盾を含んでいる。次に、バークリは、ロックの観念説において概念的思考と調和している心像論的思考を不適切に使用することによって、ロックの物質論が矛盾していることを、不当に強調する。それゆえ、バークリの観念論の論理を十全に捉えるには、これらの基本問題を再考する必要がある。
|