ホメロスやヘシオドスにおいては、人間は、神との対比において、認識能力の点で本来的に劣るものであり、また、対象としての世界も、人間による合理的な解釈を容れない不条理なものとして描かれていた。 クセノパネスはそうした人間把握をある意味で踏襲している。しかし、対象としての世界そのものが不条理であるとか、人間がまったく真実を把握できないと考えてはいない。彼は懐疑論者ではない。神との対比における人間の根源的存在様態への洞察を基礎としており、感覚経験を重視しながら、しかし、観察や経験では捉えることの出来ない対象に関しては、率直に人間の能力の有限性を認める。明らかならざるものについて何事か語ろうとすれば、それは「真理」というより「信念」とならざるをえない。しかしその信念は、クセノパネスによれば、可能な限りの直接的観察事実を積み重ねることにより、時と共に探究によって真理となりうる可能性を内在している。その限りで、クセノパネスは、叙事詩人たちとはまったく異なる前進的な人間像を提示している。 また、パルメニデスについても、同様の対立を軸に、「死すべき者ども」の「思わく」は、真理とは隔絶した、本質的な虚偽性を内包しているものとして考えられてきた。しかし、それならばなぜ、彼はその詩の第二部でこの「思わく」を描いて見せたのか理解できない。彼のいう「思わく」とは決して「現れ」とか「現象」と同定されうるものではなく、一定の知的判断である。彼は、感覚と思惟とを認識の源泉として一体的に捉えている。原初的認識対象としての「ある」の観点から「思わく」の原理を学び、これを解体していくことが、妥当なコスモロジーの確立につながるのである。
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