本年度はオレームの師であるビュリダンの宇宙論について主に考察した。14世紀のビュリダンは、13世紀のトマスと同じく、アリストテレス的な地球中心的な宇宙像を思い浮かべているにもかかわらず、トマスとは異なり、そしてオレームと同じく、地球の自転の可能性、宇宙が複数存在する可能性、空虚が存在する可能性を積極的に考えている。おそらく1277年に219箇条の命題が断罪された結果、神は全能であり、矛盾のないことなら何でもなしうるということが、自然学の領域において以前にまして強く意識されるようになり、アリストテレスの自然学には反していても、それ自体には矛盾はないことの可能性が積極的に考えられるようになったからであろう。そのような宇宙像においては、空気は、空虚とは異なり、見られうるものであり、したがって描かれうるということになる。ここから「空気を描く」ということが理論的にも要請されるようになったのではないであろうか。 ビュリダンとオレームが地球の自転を否定した理由も14世紀の自然学について考える上で注目に値する。ビュリダンは「地球が自転しているなら、真上に投げ上げられたものが真下に落ちてくることを説明できない」、「土が本性的に円運動するということを確認できない」という理由で否定したが、オレームは「神は地球を堅く建て、それは動かされることがないであろう」と言って、否定したからである。しかしオレームは、地球の重心の移動によって地球が動くことは否定していない。しかもオレームも、ビュリダンによる否定理由を説明できないでいる。それゆえオレームも、キリスト教的な理由で地球の自転を否定したのではなく、ビュリダンと同じく、理によって否定したのではないか。14世紀の思想家は、経験と理(アリストテレス的自然学)に強くうったえていたのであり、だからこそ「空気を描く」ということが行われるようになったのではないであろうか。
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