アメリカ社会学界においてティーチングは特に重要な位置を占めている。これはアメリカ社会学という学問が、アメリカ社会あるいはアメリカの大学というシステムの中にあるというだけで自然にそうなったのではい。社会学教育を改善しようという熱意を持った多くの人々が、すぐれたリーダーに恵まれ、そういった人々の着想と努力の結果として、つまり、業績ないし功績の記念碑として、現在あるような位置を占めるに至ったのである。 アメリカ社会学会(ASA)は、アメリカの学術専門職の団体の中では特にティーチングに力を入れていることで知られている。しかし、ASAは設立当初からティーチングを重要視していたわけではなく、他の学会と同じく主力メンバーは高度な学問研究を行う団体と考えていた。 1960年代後半からアメリカの高等教育の大衆化がはじまり大学入学者数も増大した。1967年から1972年の15年間で学生数は2倍以上になり、1972年当時の予想では5年後にはさらに50%増加すると見込まれていた。 ハンス・O・マウシュ(Hans O. Mauksh、1917〜1993)はナチスの手を逃れアメリカに亡命した西欧のユダヤ人知識人の一人であり、志願兵としてヨーロッーパ戦線で戦った後、シカゴ大学大学院でPh.Dを取得した。彼は「教育は重要である」という信念を持ち、看護学校教授、工科大学教養学部長、医学校の行動科学科の長といった、非学問研究型の、いわゆる実践者養成系の高等教育の管理運営企画に携わった。 当時、アメリカの大学ではティーチングという実践は軽視されていた。マウシュは休眠状態にあったASAの学部教育委員会の長に選出されたのをきっかけに、ティーチング改革に着手した。 1973年にFISPE(初等中等教育後教育改善基金)から助成金を受けることに成功した。その資金を生かしつつ、1974年にASAティーチングプロジェクトが活動が始まった。ティーチング・サービス・プログラムが作られ、は教材開発、印刷、販売を行うTRC(ティーチングリソースセンター)、最新のティーチングの相談やワークショップ、セミナーを行うTRG(ティーチング資源顧問団)、学部教育の外部評価を行うはDRG(学部資源グループ)の3つのシステムが作られた。マウシュらの企ては成功し、ティーチング支援・改善の仕組みは学会の主要な制度となり、今も重要な役割を果たしている。
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