近世武士層とナショナリズム(要旨) 水戸学は、徳川光圀の修史事業に淵源し、19世紀に入って、藤田幽谷とその門人たちの著述活動によって流行の学問となった。幕末の武士層によって受容された水戸学は、明治維新後の歴史に多大な影響を与え、今なお我々の歴史意識を規定している。 そこで、本研究では、江戸時代のナショナリズムの諸潮流のうち、特に水戸学を取り上げ、幕末の武士層によるその受容のあり方に焦点を絞ることにした。 水戸学の影響を受けた武士の中で、吉田松陰と横井小楠は、その受容の仕方が対照的であり、維新後の日本の展開を考える上でも重要であるので、特に集中的な研究対象とした。 まず、松蔭は「一姓歴々」の天皇家が存続していることに日本の独自性と優秀性を求める水戸学の国体論を継承する。彼は、儒教道徳が妥当するのは、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の関係についてであり、天皇を支配者に頂く国体には儒教道徳は及ばないと主張した。松陰によれば、天皇が誤った場合臣民は宮城前で泣くことによってその感悟を祈る他ない。こうして幽谷以来の水戸学に端を発する天皇の神秘化が一段と先鋭化された。 これに対して、小楠は当初水戸学の影響を受けたが、水戸藩の君臣の政治行動に対する観察や西洋文明の集中的研究を通じて水戸学の呪縛から脱した。彼は水戸学と同様日本の独立維持を目指したが、天皇を神秘化することなく、むしろ儒教的な理想的君主に育成しようとした。小楠によれば、平和で豊かな民衆の生活を保障する国「華」であり、その意味で今や西洋諸国が「華」となり、日本や中国は「夷」に成り下がった。こう考えた時点で、日本を「華」と決めてかかる水戸学の自民族中心主義は克服されたといえる。小楠は平和で豊かな民衆の生活を保障するという原理を「三代の道」と呼び、日常生活、国家、国際社会のあらゆる領域に普遍的に妥当する理念としてこれを提唱した。
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