本研究は教育をメディア史の視点から捉えようとする試みである。ここでは教育を知識や情報の伝達機能面で捉える。教育のメディアは歴史的に変遷し、そのあり方が教育や文化を規定する。本研究はこの視点から近世の知の伝達メディアについて論究した。 近世は、文字文化が広く深く浸透した「文字社会」であった。そのため識字率はどの階層においても高かった。まずその社会構造的理由を兵農分離の体制とそこでの政治システムから説明した。その上で、17世紀後半に商業的大量出版時代になった概況と、その教育的意味を考察している。とくに文字に関する文化(書流派は「お家流」でほぼ一統化され、文書の書式や文体、文字を書く際の約束事等といった文字文化・書記文化)が、地域と時代を超えて、ほぼ近世の日本列島全域に成立していたことを明らかにした。その共通化した文字学習の場が「手習塾」(寺子屋)だったと論じている。 出版の普及は、まもなく定型の手習や学問のテキストを成立させ、知的「公共圏」の成立を促した。また17世紀末の貝原益軒は「学問」を平易な和文に置き換え、新たな出版メディアを利用して、識字大衆を読者に想定して、民衆向け学習書を量産した。 他方で、18世紀中期以後普及した石門心学は、文字ではなく、口頭での講釈さらには「心学道話」による教化運動であった。声のメディアを活用した心学は、これまで教育の対象外であった非識字民衆にも、一定の有効な教育作用をもつに至った。 江戸幕府は、享保-寛政期に出版統制策を持つ一方、音声メディアによる教化政策を持ち始めたが、それは、幕府が教育のメディアがもつ政治的意義や可能性に気づいたことを意味している。学校教育の出現は寛政期の組織的民衆教育の先にあると示唆した。
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