江戸時代から明治初年(廃藩置県まで)にかけての日本における藩学数学教育は、次のような変遷を遂げている。和算を主として教授する段階から、幕末期の海防の必要性から和歌山藩学学習館や福井藩学明道館など先進的な藩学において洋算を導入する段階、さらに明治維新後に和洋算併用または洋算教授を行う段階へと発展した。 本研究では、武士の教育機関たる藩学の「算」教育において、A.「算」教育を実施していた藩学数の把握、B.「算」教育導入・定着過程の文化的背景、つまり数に対する武士の価値観形成について、C.「算」教育の内容や階梯の学規を検討すること、を通じて学校数学教育の定着を歴史的に解明することを目的とした。 文部省編『日本教育史資料』を主史料として、藩学算術科における学規・試験規定・教授内容・算術師範・修学の日時や年令規定などの状況を考察した結果、幕末期(慶応3年)以前には全藩学の21.9%(48校)しか算教育を行っておらず藩学が終焉を迎える明治4年時点においてすら全藩学の33.5%(89校)ということが明らかとなった。 算教育を実施していた藩学では、(1)全藩士を対象とし、演段術や点竄術までを内容としていたもの、(2)全藩士を対象とし、基礎的内容のみとしたもの、(3)実務を行う藩士に限定し、演段術や点竄術までを内容としたもの、の3類型があり、(1)の型が最も多かった。これらを総合すると、藩学における算教育は、修身斉家治国のための基本となる「高尚な」学芸であり、「風量なる嗜み」と当該藩が認識した場合に藩学に受容され、その内容は庶民が慣れ親しんでいる「実用的」な算盤数学ではなく、演段術や点竄術を駆使する「非実用的」な筆算数学でなければならなかったのである。
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