本研究の狙いは、室町幕府の重要な宗教政策の1つである安国寺・利生塔政策の具体相について実証的lに明らかにすることであるが、本研究によって以下の点などが明らかとなった。 (1)安国寺・利生塔は、建武5(1338)年から康永4(1345)年2月以前に設定され、とくに暦応2(1339)年が画期であった。とくに、暦応2年8月16日に、後醍醐天皇が足利尊氏らを呪いつつ死去するという大事件が起こっており、足利尊氏兄弟にとって、かつては主人でありながらも、結局は反逆することになった後醍醐天皇の鎮魂こそが非常に重要であった。それゆえ、歴応2年に安国寺あるいは利生塔として設定されたものが多い。(2)安国寺・利生塔政策は、南北朝動乱で協力した寺院への論功行賞の意味もあった。安国寺のうち寺格がもっとも高いのは、山城安国寺で、第2位は丹波安国寺であったが、丹波安国寺は、足利尊氏の生母上杉清子の菩提寺で、尊氏誕生の地という伝説がある。こうした寺が、安国寺に指定され、高い寺格を与えられたのは、常に味方し、祈願してくれた生母の菩提寺に対する論功行賞の意味があったことを示している。(3)従来、安国寺は、すべて五山派寺院すなわち禅宗寺院と考えられてきた。しかし、下野薬師寺(栃木県)・大和安国寺(奈良県)のように律宗寺院も少しあることは重要である。他方の利生塔は、禅宗寺院(30箇寺のうち13箇寺、うち2寺は曹洞宗)のみならず、備後浄土寺を初めとして律宗寺院も多く(10箇寺)設置された。このように、安国寺・利生塔は室町幕府の禅.律寺院優遇策の一環であった。(4)利生塔は五重塔ないし三重塔であるが、若狭神宮寺三重塔も利生塔の1つであった。(5)安国寺は、聖武天皇が天平13(744)年3月に詔を出して国ごとにおいた国分寺制度を、他方の利生塔は、インドの阿育王が建立したという八万四千塔をモデルとした。
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