4年間の研究計画における第1の目的は、奥出雲におけるたたら製鉄業の歴史を明らかにすることであった。第2には、中国地方における製塩業の歴史を明らかにしようとした。第3には、柳井における綿織物業の歴史を明らかにしようとした。 まず、我々は「山陰新聞」から在来産業についての多くの記事を収集することができた。つぎに、我々は仁多町櫻井家、横田町絲原家、江津市の澤津家のたたら操業について多くの史料を収集した。 また、我々は山口県、大阪府、和歌山県の図書館と文書館に行き、在来産業についての多くの史料を収集した。 その後、我々はたたら操業、奥出雲の鉄文化、高殿(たたら操業の施設)、山内(たたら製鉄操業労働者の居住地)での生活形態、について分析した。 そして我々は塩業、織物業、たたら製鉄業についての論文を発表することができた。 塩業労働者の争議において特徴的なことの一つは、物価の上昇と密接な関係にあるということである。浜子は皆専業である。他地方からの出稼ぎの者も多い。彼らの生活はほとんど農業に依存していない。日々現金生活であり、物価の上昇は彼らの生計を直撃する。浜子の同盟罷業は、ほとんどの場合、連年続いている物価上昇にもかかわらず、賃金があがらない場合におこっている。 山口県の織物業は、江戸時代に開作地帯に広がっていた綿作を背景に農村工業として発展してきた。そして大島郡のように綿作はないけれども豊富な労働力を背景に玖珂郡の綿を使い、織物業の発展した所もある。近代においては、玖珂郡の柳井を中心に周防織物業界は白木綿、縮木綿、縞木綿など市場の要求に応じた織物を生産し、染色の工夫をして市場の獲得に努力してきた。 たたら製鉄業については、経営の具体的な実態を明らかにすることに努めると同時に、山内の実態について明らかにしてきた。たたら操業については、3日操業と4日操業があるが、3日操業では生産がやや多く、4日操業では銑生産が多いが、いずれにおいても、銑ともに生産されており、大坂市場における価格が経営に大きな影響を与えていることを明らかにすることができた。また、山内は家族を含め大規模なもので500人から600人規模であり、数ヵ所に分かれていることがわかった。
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