従来の一国郷帳(以下単に郷帳と呼ぶ)の研究は、国絵図・郷帳と一括して行われてきた。しかし国絵図の研究の方は河村博忠氏や黒田日出男氏らによって体系的に研究が行われてきたのに対し、郷帳の研究は研究者の絶対数も少ないこともあり、国絵図研究に比べ研究成果が少ない状況にある。このような状況をふまえ本研究では徳川幕府による正保元年の郷帳の作成過程を中心に研究を行った。 まず豊臣政権下での天正期の御前帳について研究した秋沢繁氏の研究さらに徳川政権下での慶長期、正保期、元禄期、天保期の郷帳について体系的に研究した黒田日出男氏や藤井譲治氏らの研究について検討し、再検討すべき点を明らかにした。ついで本研究の中心である正保郷帳について研究するため正保郷帳の全国的な残存状況について調査し、それを受けてその収集にあたり、32か国と陸奥の4地域の合計36点の正保郷帳をについて収集できた。これら正保郷帳の分析の結果、正保郷帳の作成の意図は徳川幕府による幕藩体制の確立を受けて諸大名の慶長郷帳以来の生産力の掌握と領内の掌握を目指したものであった。これにより諸大名の公称高(表高)および軍役高、家格等の決定がなされた。そしてこの公称高(表高)は次の家綱の代の寛文4年の幕府による諸大名への体系的な所領安堵を行った寛文印知状の基盤となったのである。さらには次の元禄郷帳においては領主の公称高(表高)のみを書き上げるという実高との乖離をそのまま認めることにより公称高(表高)の維持を第一に考えていたことを解明するしたのである。さらに正保郷帳の作成過程をみると幕府は一定の統一記載基準を呈示しているが、実際には各藩の作成した郷帳はまちまちであったため、幕府との折衝の過程で統一基準に近づけていったのである。中でも公称高(表高)にあわせて郷帳を作成提出することとしたため、新田開発等で増加した実際の国高との差額は個々の村高を圧縮して公称高(表高)にあわせたり、新田高は本高(表高)にはいれず、別に書き出せるなどしているのである。このため上述のような公称高(表高)と実高との乖離が生じていくのであり、この過程についても解明した。
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