蒙古襲来と日本の杜会との関係について研究をおこなった。蒙古襲来について最も正確にその実状を伝えた史料は肥後国の御家人であった竹崎季長が作製した蒙古襲来絵詞という絵巻である。その蒙古襲来絵詞は江戸時代の後半から世に知られることとなって、松平定信をはじめとした大名や学者達の注目をあび蒙古襲来絵詞についての研究や考証が行われた。蒙古襲来絵詞の絵の中でも最も著名な場面が絵7であり、文永の役に於いて竹崎季長が3人の蒙古兵と対峙して奮戦している場面である。この3人の蒙古兵については既に江戸時代の描き込みであることを明らかにしていたが、 更にこの場面に描かれている「てつはう」は蒙古軍の使用した武器として著名であるが、このてつはうも江戸時代の描き込みであることを明らかにした。そして、てつはうが描き込まれたのは、江戸時代の松平定信を中心として大名や学者達の蒙古軍についての考証によって、てつはうの存在が知られ、そうした情況で描き込まれたことを明らかにした。 また、蒙古襲来後、鎌倉幕府は博多に鎮西探題を設置したが、鎮西探題によって、蒙古襲来や国内の治安対策のために博多は周囲を自然の河川、海、及び堀で囲んで城郭都市として構築されたことを初めて明らかにした。博多が周囲を川、海、堀で囲み防備を施したのは従来は戦国時代であるとされていたが、戦国時代よりずっと古く、鎮西探題によってであることを実証した。 また、博多が蒙古襲来後、鎮西探題によって城郭都市として構築されたことを実証するにあたって、博多の町を描いた最古の史料である聖福寺之繪圖は従来、戦国時代の作品であるとされていたのを鎌倉時代末から南北朝時代の早い時期に描かれた作品であることを明らかにしたり、その他、聖福寺之繪圖に描かれている大鋸に関連して、大鋸は中国から室町時代に従来し、鎌倉時代には大鋸は存在しなかった。従って、鎌倉時代には大鋸の絵は存在しなかったと考えられていたが、鎌倉時代の兵庫県極楽寺の六道絵や香川県法然寺の十王像に大鋸が描かれていることを発見し、大鋸についての史料は鎌倉時代には存在しないとする大鋸についての定説を改めた。 また、博多の都市の研究の過程で博多の戦国時代の記録である聖福寺の安山借屋牒に記載されている地蔵堂が現存していることを明らかにし、この地蔵堂の調査によって博多では濡衣塚板碑、大乗寺板碑(いずれも福岡県指定文化財)につぐ3番目に古い延文5年7月21日銘の板碑を発見し、博多の町が鎌倉時代には既に都市化していたことを明らかにした。
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