平成12年度に、主として後漢時代の石刻史料を整理・分析したのに続き、平成13年度には、近年湖南省の長沙から出土した三国・呉時代の簡牘について整理・分析を行った。 この長沙呉簡は、数量・種類とも稀に見る豊かなものだが、そのうちの吏民田家〓と呼ばれる大型の木牘は、従来農民の納税先となった官府で作成され、官府と当該の農民との間で分割所有されたいわゆる納税証明書と理解されてきた。とすれば、中国においては早くも三世紀前半に、納税者である農民の権利が保護されていたことになり、吏民田家〓の史料的な意義も高くなる。本研究では、この吏民田家〓に対して史料学的な検討を行い、このような理解が成立しがたいことを確認した。そして納税者台帳とも言うべき吏民田家〓を分割保有したのはむしろ納税先の官府と納税者が居住する郷の官員だったと結論した。郷が徴税や納税に際して重要な役割を演じたという点においては、後漢の制度を継承したものと評価することができる。 ところで吏民田家〓の記載からはまた、農民が丘に所属ないしは居住していたことが明らかになる。この丘をどう解釈するかで、当時の長沙一帯における農民の存在状況に対する理解が大きく異なることにもなる。吏民田家〓以外の小型の竹簡によれば、農民が郷・里に所属していたこと、したがって漢代以来の制度が存続しでいたことも疑いない。したがって丘が実際の居住場所で、里が名目的な所属単位であった可能性がきわめて高いと言える。このような例は五世紀初めの敦煙でも名称こそ異なるものの確認できる。したがって辺境地域ではある程度までの一般化ができそうだが、長沙の場合、この地が古くから蛮と呼ばれる非漢族の生活区域であったととも無視できない。山間部や丘陵地帯にあった彼らの存在形態を尊重した結果と言うこともできよう。
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