ムガル時代の首都デリ建設をめぐっては、はじめに13世紀初めから16世紀初めまでの約300年間のデリー・サルタナット時代のデリー市の変遷を検討した。今日に残る王城の遺跡の位置関係を地図で調べ、実際に現地でその位置を確認することにより、歴史的変遷を検討することができた。 デリー・サルタナット時代のデリー市は、いずれもその規模は小さいが、移転後の都市と移転以前の都市とは比較的近い距離にある。王城が移転した後、もとの都市がまったく放棄されてしまい、無人となったわけではない。先行研究によって、このことは、もともとの都市にスーフィー聖者が住みつき活動していた場合に、より明らかとなった。 バーザールや一般の民家が遺跡として残ることが極めてまれであるため、実際の生活空間としての都市は王城以外にその位置を確認することは極めて困難であるが、先行研究によってムスリム聖者の活動範囲をある程度推測することができ、デリー・サルタナット時代のデリー市の歴史的変遷をたどることも可能となる。 本研究の目的とするところは、生活空間としての都市のあり方であるから、単に王城の変遷のみをたどるのではなく、王城を含む広い範囲の王城周辺の状況を見でおかなくてならない。ムガル時代に直接つ准がる都市として・第一に、シェール・シャ時代の首都デリー建設計画を検討した。プーラーナ・キラ(Purana Qi1a)とシェール・シャー門として知られるラール・ダルワザ(LaI Darwazah)との位置関係は重要性をもっていることがわかる。ムガル時代初期の首都建設の位置に対する考察が必要である。スール朝期は短期間ながらも、その後のムガル時代の都市計画に重大な影響を及ぼしたことが分かっている。 デリー市の建設を検討するためには、同時代のラーホールやアーグラの状況を知る必要がある。ただし、今年度はこれらの都市については単に比較のために検討するにとどめた。ムガル時代のデリー市建設を見るために、同時代のデカンのムスリム王国の首都を比較のために取り上げた。その一つとして、デカンのゴルコンダ王国のかつての王城ゴルコンダとその後の首都ハイデラバード建設を考察した。 ムガル時代の首都シャージャハーナーバード建設は、単なる王城の建設にとどまらず、ジャーマ・マスジッド建設や都市機能を維持する上でのその他の重要な建物の建設をともなっている。大バーザールのための二本の大通りは、デリー市の建設がはじめから単にムガル皇帝一族の居城建設のみを意図していただけでないことが当時の都市地図から十分に理解される。 今回の研究の結果、デリー市の歴史的背景、同時代のムスリム都市との比較によって、デリー市の動態的構造の解明に迫っていくものである。
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