本研究は、吐魯番盆地から出土した高昌郡時代から唐・西州時代に及ぶ種々の漢語文書の中から、仏教寺院関係文書を取り上げて整理を行い、特に麹氏高昌国時代から唐・西州時代に至る寺院経済の実態と意義を明らかにしようとするものである。 本年度は、『吐魯番出土文書』(文物出版社)及び『新出土吐魯番文書及其研究』(新彊人民出版社)所収の吐魯番文書、『斯坦因所獲吐魯番文書研究』(武漢大学出版社)所収のスタイン将来吐魯番文書、『大谷文書集成』(法蔵館)所収の大谷探検隊将来吐魯番文書、さらに池田温『中国古代写本識語集録』(東京大学東洋文化研究所)所収の仏典題記などの中から、高昌郡時代から唐・西州時代に及ぶ仏教寺院関係文書を取り出して整理を行うことにした。その中で、仏寺名についてのデータベース化に着手し、ひとまずこれを終えた。また僧尼名についてのデータベース化も紀年の明瞭な文書から始め、現在進行中である。なお、文書写真の画像処理によるデータベース化については、実際に試みた段階で保存のための容量が膨大なものになり、通常の処理では困難であるので、ひとまず文字史料中心のデータベース化を優先することにした。 また仏寺名のデータベース化を進める過程で、中国古代における仏寺の称謂の変化についても明らかにすることができた。1世紀ごろ仏教は中国に伝わったとされ、その当初、仏寺は「祠」と称されていたが、やがて西晋時代までに中原地域(華北及び江南地域)では「寺」へと称謂の変化が進み、西方の教煌や吐魯番などの周辺地域ではそれより遅れて「寺」への変化がおこったことがわかった。こうした「祠」から「寺」への変化は、三国から西晋時代にかけて仏寺及び僧尼が国家の管理下におかれ、仏寺という施設そのものがいわゆる官舎(「寺」)の範疇に含まれると認識されるようになったことから始まったと考えられる。
|