本研究は、吐魯番盆地から出土した、麹氏高昌国時代から唐・西州時代にいたる間の、漢語で記された吐魯番文献の中から、仏教寺院関係文書を取り上げて整理を行い、この間の寺院経済の実態とその意義を明らかにしようとしたものである。 まず、吐魯番文献から仏寺名についてのデータベースを作成した。総数223か寺のうち、麹氏高昌国時代に179か寺、唐・西州時代に68か寺の寺院が存在したことが明らかになった。その過程で中国古代における仏寺の称謂の変化についても検討をおこなった。中国に伝播した仏教において、当初、仏寺を「祠」と称していたが、やがて西晋時代までに中原地域では「寺」へと称謂の変化がおこり、西方の敦煌や吐魯番などの周辺地域では、それより遅れて「寺」への変化がおこったことがわかった。こうした変化は、三国から西晋時代にかけて仏寺及び僧侶が国家の管理下におかれ、仏寺という施設そのものが官舎(=「寺」)の範疇に含まれると認識されるようになったことから始まったと考えられる。 次に、僧侶名の記された経済文書にもとづき、麹氏高昌国時代における僧侶個人の経済活動について検討を加えた。その結果、僧侶の中には、寺院や居宅などの不動産を所有するものが存在したこと、僧侶はすべてが寺院に常住していたわけでなく、親族と同居するものや、他人の部屋を借りるなどして生活するものがいたことを確認できた。さらに僧侶個人が耕地や葡萄園を所有し、それらを直営地としたり、経済的に弱い周辺農民の耕地を小作したりすることもみられた。また、収穫された葡萄から葡萄酒を製造したり、醤や酢などの醸造業者に金銭を貸し付けたりする僧侶もいた。こうした俗人とかわらぬ経済活動などを理由に、麹氏高昌国は僧侶や寺院に対しても税役を課したものと考えられる。
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