今年度は、11-12世紀におけるビザンツ帝国のブルガリア支配の問題を研究した。支配者であるビザンツ当局が、いかにして民族を異にするブルガリア社会を統治し、それを帝国に同化・編入しようとしたのかを究明することに努めた。1014年に最終的に第1次ブルガリア王国がビザンツに併合された後、旧ブルガリア領はデュラキオン(アドリア海沿岸、アルバニア)、ブルガリア(現在のマケドニア共和国の領域)、パリストリオン(ドナウ河口地域、ブルガリア東部)の3つの行政管区に分割され、中央から派遣される長官の管轄下に置かれた。王国時代は独立した総主教座を擁していたブルガリア教会は、皇帝に直属するオフリド大主教を頂点とする組織に再編された。こうした状況において、旧ブルガリア領の再編は、事実上、ビザンツ・ギリシア化の過程として進行したと思われる。オフリド大主教には当初、ブルガリア人聖職者が任命されていたが、1030年代以降は首都の総主教座出身のギリシア系聖職者に取って代られることになった。一方、旧ブルガリア領にビザンツ貴族が所領を獲得して進出する動きも見られた。11世紀後半、フィリッポポリス(現プロヴディフ)近郊に多くの所領を獲得したビザンツ軍幹部のグレゴリオス・パクリアノスが建設したバチェコヴォ修道院や、12世紀後半、おそらくブルガリア長官だったと思われるアレクシオス・コムネノスの援助で建立されたスコピエ近郊のネレジ聖堂は現地での彼らの存在感を証明するものと言えるだろう。この地域に散在する教会堂内部のフレスコ画が同時代のテッサロニケ、カストリアなどビザンツ領マケドニア都市のそれと共通した特徴を示すことも、両地域間に密接な文化交流があったことを証明しており、それはまた文化の保護者としての貴族の仲介者としての機能をも示唆するものと言えるかもしれない。現地ブルガリア系有力者がそれにどう対応したかが今後の検討課題となろう。
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