国内戦におけるソヴィエト権力の勝利とネップの導入は、十月革命後に亡命したロシア知識人の一部の間に、ある種の思考転換を促した。彼らは、「列強としてのロシア」の復興を追求し、それを実現するものとしてのソヴィエト権力を次第に容認するようになった。 本研究は、「道標転換派」と呼ばれたこの思想潮流がいかなる主張を展開したか、そしてその主張が1920-30年代のソヴィエト・ロシア本国にいかなる影響を与えたか、を実証的に明らかにすることを目的とした。平成12年度の研究過程では、この運動の最初の提唱者であり最も重要な論者であったN・V・ウストリャーロフの思想と行動を具体的に追跡することを通じて、この課題に取り組んだ。 1920年にハルビンに亡命したウストリャーロフは、1921年の新経済政策(ネップ)への移行がソヴィエト・ロシアに「変質」をもたらすと捉え、この路線が「偉大で強力な国家」としてのロシアの復活に必要な条件であると考えた。この情勢下では、ボリシェヴィキが独裁権力を維持することがロシアの利益になる、と彼は考えた。「一国社会主義」の採用とネップ路線に基く経済的攻勢の開始は、ウストリャーロフを満足させた。彼は1925年に論文集『革命の旗印の下に』を発表したが、この論集はソヴィエトの政治指導者のあいだで、政策論争にかかわる激しい論争を引き起こした。 ネップが終焉を迎えた時のウストリャーロフの衝撃は非常に大きかった。彼は当初、ネップの継続を主張するブハーリン路線に期待をかけた。ブハーリンの敗北後、ウストリャーロフは深い危機に陥ったが、「ロシア」に対する信頼によって、ソヴィエト政権の新たな路線と和解することができた。こうしてウストリャーロフは、結果的にはハルビンからスターリン路線を正当化することになったのである。
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