本研究は、日本の古代地方都市の形成から解体に至るプロセスを、分節化した都市的要素毎に検討し、解明しようとする試みである。本年度は特に国内では、伊勢国の分析に重点をおき、同国内の北・中部を中心に所在する大安寺墾田地の成立過程から地方行政組織がどのような背景から成立してくるのかについて研究した。 その結果、伊勢国北部を中心に成立した墾田地は、前代の王権が追求した大和国から東国への重要な陸上交通の拠点である鈴鹿・不破「関」間の交通の確保という政策と関係があったことを明らかにした。伊勢国北部は王権の東国支配という目的の下早くから注目され、律令地方行政組織の整備もスムーズに展開したのであった。一方中部地域では、一志・飯野郡が早くから王権の注目するところとなり、一志郡には新家屯倉を設置して広大な御田を経営しつつ当該地の地域支配をおこなった。飯野郡南部から多気郡北部がなぜ王権が着目したのかについては依然として不明な点が多いが、ここでもまた、古墳時代後期以来の王権の支配地域の確保という行動が確認できた。斎宮がこの地に選ばれた背景もこれによって理解できるのである。 ところでこの様な日本の地方行政組織の形成が、中国古代の地方都市形成といかなる関係にあるかも大きな問題である。そこで、本年度は、中国古代王権の所在地である陝西省西安市の南東120kmに所在し、武関のある商州市を重点的に調査・研究した。武関は日本の鈴鹿関と同様南東への出入り口として重視されていた地で、戦国時代以来交通路を確保するために多くの施設のおかれていたことが判明した。王権の所在地を守るため、首都周辺部に早くから関を設け、その保護のために有力な官僚を配して防衛に当たらせていたのである。
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