1、柏原家所蔵和漢書蔵書目録と洛東遺芳館所蔵和漢書の調査により、次のような事実が明らかになった。 (1)蔵書の形成に、婚姻によって結びついていた岸部家、那波家、吉田家、三井家が大きい役割を果たしていた。たとえば、岸部家へ嫁いでいた那波家七代目九郎左衛門の娘きせが、柏原家に再嫁したことによって、岸部成朶所持の本が柏原家にもたらされた。そしてこの出来事が、後に柏原家の人々が和歌を学ぶきっかけになった。 (2)柏原家の「学問」は、和歌・歌学からはじまり、次に国学・漢学、次に実学と変遷していった。ただし、芝居、地誌・歴史への興味は、明治時代まで一貫して持続している。 2、洛東遺芳館所蔵香川景樹書簡と柏原正寿尼自筆和歌資料の調査により、次のような事実が明らかになった。 (1)正寿の和歌の稽古は、師匠に詠草を送り、添削を受けることと、師匠主催の歌会に和歌を出す、可能なら出席する、という二つの方法を中心としていた。これらの方法を実行するため、正寿尼は、日頃から様々な努力をはらっていた。 (2)洛東遺芳館所蔵の正寿尼自筆和歌関係資料は数も多く、内容も多様であるが、(1)に記したような、正寿尼の稽古の方法を基準にして、(1)歌案書き留め(2)詠草(3)和歌控(4)部立歌帖(5)その他に分類することができる。 3、柏原家の文事についての調査の過程で、正寿尼の景樹入門の仲介者が、仏光寺の僧の恵岳であったことが判明した。この事実の意味は、平成16年度〜19年度の課題「桂園派の形成・展開と真宗仏光寺派交流圏」において考えてみたい。それによって、柏原家の文事の全体像をさらに明確に把握することも可能になるであろう。
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