研究概要 |
この研究は,地方の人形浄瑠璃のかしらを資料として,人形浄瑠璃の発生と展開の問題を解き明かすことを目的としている。平成14年度もかしらの調査を継続するとともに,現在までに収集した資料を整理・検討することで新たな知見が得られた。今年度,おもに取り組んだのは人形式三番の問題である。人形式三番は,人形芝居の発生とも関わる問題であると思う。人形式三番は能の式三番を継承していることは間違いないが,継承経路はわかりにくい点が多く,人形式三番の成立に関しても諸説あり,現在のところ明確になっていない。文献でみるかぎり新たな展開は難しいように思うが,人形式三番やそれを演じるかしらは全国に残っている。現在までに調査・収集した人形式三番に関するかしら等のを加えて再検討ところ新たな仮説を示すことができた。その概略は次のとおりである。まず地方の人形三番と能の式三番を比較すると,能は翁が中心であるに対して人形は三番叟が中心である,そしてその中心たる三番叟には目が返ったり口が開く仕掛けがあるにもかかわらず顔の上に黒尉の仮面をつけるという矛盾が生じているなどのいくつかの違いがみられた。また人形式三番の興行許可に関する江戸後期の資料を見出した。このようなことなどから,人形式三番の場合本来,式三番形式と本来の人形とは別で,本来は三番叟が夷回しや仏まわしのような宗教的な存在として早い時期から存在していて,後になって能の式三番の形式が取り入れられたのではないかというものである。この仮説は昭和女子大学文化史学会第10回大会(平成14年12月14日)において口頭発表し(人形式三番の成立について),近々投稿を予定している。人形式三番の成立の時期は,先行研究において近世初期もしくはそれ以前に遡るといわれてきた。しかし現在のかしら等の地方資料から考えると,人形に式三番形式が取り入れられたのは江戸時代の後期になってからと推測されるのである。以上のように推測しているが,これは人形式三番や三番叟の全国調査の過程で思いついた仮説である。今後は更に調査を進め,資料を収集し,仮説をより確実なものにしていきたい。
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