プラトンの『国家』以来、「現実に存在しない理想社会」としてのユートピア像がさまざまな思想家や作家によって提示されてきた。そうしたユートピアの系譜をたどってみると、20世紀に至って、従来のユートピア像の対極に立つ「反ユートピア」、すなわち「ディストピア(dystopia)」を描いた作品が多く出現していることに注意を引かれる。代表作として、ザミャーチン『われら』(1924年)、オールダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』(1932年)、ジョージ・オーウェル『一九八四年』(1949年)といった小説があげられる。これらは、本来、理想社会=ユートピアの理念をもとに構築されたはずの共同体が、その強大な権力機構によって民衆を管理し、不自由化するというモチーフに貫かれており、ソヴィエトやナチス・ドイツの体制を典型とする全体主義イデオロギーの脅威に反応した文学表現であった。現代においては、テクノロジーの飛躍的発展が人間の制御能力を超える地点に至ってしまったという危倶が強く自覚され、「ディストピア」を描く文学表現がますますそのアクチュアリティをもつものとなっている。 本研究では、従来ユートピア思想史の文脈で、その一変種として扱われていた「ディストピア」に特に注目し、近年のフェミニズム、ポストコロニアリズム、カルチュラル・スタディーズなどの研究成果を援用しつつ、「ディストピア文学」の特質をより多角的に考察することにつとめた。また、「ディストピア」を描く作品群がほぼ例外なく言語的問題に関心を示すことに注目し、バフチーンらの言語理論をふまえて、「ディストピア」の言語論を展開することをはかった。さらに、20世紀の最後の四半世紀において、「ポストモダン」小説や「ヤングアダルト」小説にまで「デイストピア」が扱われている現状を示し(後者については、特にロバート・コーミアの作品を検討し)、この主題がきわめて今日的な意義と有用性を備えていることを確認した。
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