シェイクスピア時代において、事実上と行政と法の保護を受けなかった精神病者の境遇は、強い社会不安をまきおこしていた。この時期に、翻訳をふくめてさまざまな精神病関係の文献(多くはメランコリーの分析)が出版されたのも、この社会不安と表裏一体の現象である。問題は、ある種の精神病には医学上の予防法、治療法がなかったことである。悪魔憑きが原因とみなされたヒステリー症状、あるいは擬似的な狂気とみなされた高齢化は、どのような健常者にも突然、あるいは将来においてふりかかりえた。 シェイクスピア時代の文学作品はしばしば精神病を題材としており、とくにシェイクスピアの四大悲劇がその典型的な例となる。本プロジェクトでは病理学文献が幅広く分析したうえで、さらにその時代の政治的背景、文化的背景および社会の対応を考慮しながら、シェイクスピア劇を中心にその表象を考察した。 本プロジェクト最大の成果は、従来ほとんど注目されることのなかった文献、すなわちラウレニティウスの病理学書とジェイムズ1世の魔女審問を描いたパンフレット『スコットランド情報』が、『リア王』および『マクベス』にたいして多大な影響を及ぼしていることが判明したことである。医学的治療法がない時代にあって、いずれの文献も露骨なマインド・コントロールによって社会不安の解消を試みていた。シェイクスピアはこの興味深いマインド・コントロールを創作術として応用していたのである。今後は対象をより拡大し、ペストや性病、身体障害などにたいする社会不安とエリザベス朝演劇の関係を分析する予定である。
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