本研究では、いわゆる「魔術的ルネサンス」の終焉後、闇の文化史として近・現代に至るまで脈々と継承されてきた錬金術思想が、近代合理主義を極限まで追究しその崩壊を体現してみせた作家と言われるサミュエル・ベケットの作品の成立に実は深く関与していることを、神秘主義思想はもとより、図像学、心理学、記号学、演劇学、舞踊学等を駆使しつつ、晩年の作品『クワッド』を起点として初期作品まで遡り、再び『クワッド』に回帰する形で明らかにした。ベケット自身による錬金術への直接的言及がないために、これまでこの視点からの研究はほとんどなされてこなかったが、錬金術思想は、絵画におけるアナモルフォーズのように、まさに隠された知としてベケットの作品の中に息づいているのである。ダンテ・アルギエーリ、ジョルダーノ・ブルーノ、ジャンバティスタ・ヴィーコ、カール・グスタフ・ユング、ウィリアム・バトラー・イェイツ、ジェイムズ・ジョイス、アンドレ・ブルトンらがベケットに与えた影響についてはこれまでも論じられてきたものの、時代や文学的傾向が千差万別であるこれらの芸術家や思想家を結ぶ鍵が錬金術であったこと、言い換えれば、ベケットの関心の根底には常に錬金術思想が存在していたことを明らかにし、また、その考察を通して、錬金術思想が二十世紀後半に至るまでヨーロッパの芸術にいかに深く根を張っているかを浮き彫りにすることができた点は、本研究独自の成果である。ベケットの錬金術思想の形成は、初期には主としてジョイス、後にはイェイツに負うところが大きいと考えられるが、彼らから継承した「相対物の一致・結合」という、錬金術の根幹とも言うべき概念が自我の分裂というテーマに終生向き合ったベケットの作品を読み解く重要な鍵であることを解明したことにより、ベケット研究に確実に新たな光を当てることができたと確信するものである。
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