クラウス・マンの代表作『火山』は、反ナチズム亡命活動の中心的存在であった作家の作品として、ファシズムに対する「闘争」を芸術的に生き生きと造形化した作品とする解釈が主流であった。しかし私は、それは闘う作家としてのクラウス・マンの評価に引きずられた一種の先入観であると考え、本年度の研究において、『火山』という作品の本質はまた別の点にあることを、従来の解釈や評価を踏まえ、作家の未発表作品や構想、日記という近年の実証的研究成果を活用しつつ、小説を綿密に再検討することによって明らかにした。 すなわち、小説『火山』は、狭い意味での政治的・杜会的問題を扱うリアリズム小説という従来の一般的評価の枠に留まる作品ではないが、かといって、一部の研究者が主張するような、もっぱら「死とエロスの不可分性」をテーマとする非政治的でロマン主義的な作品でもない。それは、まさに政治的・社会的問題と個人的・審美的問題の関連そのものをテーマとする小説なのであり、そのことは、作品全体の題名となるとともに、作品の中でも何回か現れる「火山」の表象によって象徴的に表現されている。この「火山」の幻像が表象するのは、よく言われるような黙視録的終末だけではなく、エロスの根源的生命力でもあるのであり、この両者の関連を「火山」の表象によって象徴的に表現した小説『火山』は、この作家のエロス理解の深化を示すとともに、そもそもエロスとナショナリズムが持つある種の関連を証言していると言わねばならない。
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