現代オーストリアにおける言語実験派詩人たちは、言語を省察する過程で、統語論的文法的論理的に方向付けられた言語規範からの抽象化を実作上可能ならしめ、抒情主体の現実経験という、伝達手段としての言語の本質から決別した。こうした抽象化において主体の言語的自己同一性は完全に消失する。そして、伝統的な言語規範への関連においては自己同一性が失われるかわりに、言語遊戯的な作業形式が実現される。この形式は、80年代半ばのアナグラム的な詩作に代表されるように、意識的に粉砕された言語によって、言語規範の彼岸にある、異なった自己同一性探求と知覚作業を続けていった。こうした意味において、言語の解体傾向は、否定的な実相としてではなく、硬直化した言語観ないし価値観に対する反抗として、変容した意識形式に向けられていった。言語実験的な書法の本質的な機能は言語批判という形式であり、言語自体に内包される意識内容とKの認識批判と社会批判を目指す。こうした過程で人々の持つ世界構想や主体構想が言語的に条件付けられていることを提示することが必要不可欠となる。言語の創造的使用によって言語的思想的規範化への強制から逃れることを目指した結果、言語実験詩は、純粋に芸術的に規定されうる立場からも逃れえたのである。現代の言語実験派の作家たちは、従来哲学的、認識批判的諸科学に残されている諸領域に対して、言語批判的、意識批判的に方向付けられた言語操作を目指す。こうした総合的な連関を考慮いつつ詩作への理解を広げることによって、言語的ないし言語分析的な諸努力の理性的な評価を行う基礎が築かれるのである。言語実験的な諸傾向は、言語との格闘として、そして科学および科学的認識への関心を超えた問題系として理解されうる。
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