今年度は「蝦夷記」のアイヌ語の研究を重点的に行い、18世紀のアイヌ語の音声、音韻、文法、語彙の分析を行ったその結果、これまでに知られていなかった点として、いくつかの言語的特色が明らかになった。すなわち、まず、音声的な面について言えば、今日の/h/に対応する位置に、パ行の仮名が用いられている場合が、偶然とは思えない頻度で存在することが明らかとなった。また、今日のaに対応する位置にオ段の仮名が書かれている例も多数みられ、これらは、今日のアイヌ語の発音とは異なる発音であった可能性を示すものと考えられ、アイヌ語の変遷を考える上で貴重な示唆を与えるものである。文法的な点について言えば、人称接辞の存在が、既にこの時代の日本人によっても認識されていたことを示すと思われる記載が見つかった。このことは、アイヌ語の観察の精度が高いことを示すものと言うことができ、本資料の信頼性を推測する有力な手がかりとなるものである。語彙的な面では、従来、あまり明らかではなかった社会言語学的な言語変種が、この時代のアイヌ語には極めて多数存在していたことが明らかになった点が特筆される。すなわち、指示対象の種類、使用者の社会的な立場、使用される場面に応じて、同じ対象に対して実に様々な語彙が存在していたことが明らかになった。これらはいずれも今日のアイヌ語方言では全く知られていないか、痕跡的にしか残っていない特色であり、アイヌ語の歴史的変遷、アイヌ語の文法構造を探る上で貴重な手がかりを提供するものである。また、この資料の中には、現代の資料、たとえば『アイヌ神謡集』の中の難読語を解明する上で有力な手がかりを提供するものが含まれていることも同時に示した。なお、アイヌ口頭文芸の1人称体の起源の考察においても、古文献の資料が役立つことも示した。
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