1.イエズス不会巡察使ヴァリニャーノは、1583年『日本諸事要録』に於いて、キケロ、及び、異教の詩によるラテン語の教授を制限しているが、これは、「適応主義」に基づいたものという以上に、トレント公会議体制下のローマの修辞学(rhetorique post-tridentine)に見られる「新・キケロ主義」(neo-ciceronianisme)の日本への波及であると捉えられる。 2.1588年、トリノで出版されたペドロ・ファン・ペルピーニヤ(1530-1566)の『講演集十八篇』(Orationes duodeviginti)は、『日本使節記』と『マルク=アントワーヌ・ミュレ追悼演説』を含み、オラツィオ・トルセリーノ(1545[44]-1599)による序文の中で、より洗練された文学に対する熱意を持って、ただキケロを模倣する方法だけを学ぶのではなく、敬虔なキリスト教の雄弁の形をも我々[イエズス会]は追求する」旨が記されている。 3.ローマ大学の修辞学担当教授マルク=アントワーヌ・ミュレは、1572年「開講演説」に於いて、狭い意味でのキケロの模倣に批判を加え、折衷主義的な「新・キケロ主義」の発端となったが、ルネサンスの「キケロ主義」の発端となったが、ルネサンスの「キケロ主義論争」の流れの中で、イエズス会ローマ学院の修辞学教育に応用され、「キケロの模倣」(imitatio ciceroniana)に対する「キリストの模倣」(imitatio Christi)の優位性に道を開いたことに特色がある。 4.ミュレとヴァリニャーノの間には、トレント公会議体制下のキリスト教的修辞学思想が共有されており、ペルピーニャ等のイエズス会関係資料から、東西文化交流史の中で、連動した文学史が構成されていると考えられる。
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