ホルヘ・バッジェ大統領は、軍政期行方不明者問題の解決に意欲を見せ、2000年8月には「和解委員会」を発足させた。これは行方不明者の消息をすべて調査し、家族に明らかにしようとするものであるが、行方不明者家族の会がもとめる5つの真相のうちとくに「だれによって」誘拐され(殺された)のかを解明することには依然現役・退役軍人の強硬な反発がある。軍部はいまも人権侵害を認めていない。安全保障ドクトリンにもとづく強固な反共主義がいまも影響を振るっていることのほか、「反騒乱作戦」が手続き上軍政以前に文民の承認を得て始まったものであること。民政移管後に軍部の人権侵害を訴追しないと定めた「失効法」が、法律の存廃を問う国民投票で承認されてしまったこと、などの理由があげられよう。2001年6月の第4回比較政治学会(神戸大学)における報告「軍政期人権侵害にたいする『免責法』によって異なる歴史的記憶を『和解』させることは可能か-ウルグアイの経験から考える」では、以上の点を指摘した。国内での人権侵害を認めないウルグアイ国軍がPKOに参加することには、行方不明者家族の会から批判の声が上がっているほか、PKO参加要員の人権侵害を指摘する声もある。2002年年3月のウルグアイ東方共和国・アルゼンチン共和国へ現地調査中、ウルグアイの人権侵害問題には新しい展開があった。(1)ガバッソに一般犯罪を理由とした2年の有罪判決、これに反発した元同僚が現地紙インタビューで和解委員会に家族会代表で参加している神父を脅迫し問題化。(2)チリ元DINAベリオス事件の遺体がDNA鑑定で確認され、事件再燃のきざし。(3)「行方不明幼児シモン・リケロ」事件で、シモンとされる人物が発見され、本人がDNA鑑定を承諾。などである。これらの事件の展開いかんにより、ウルグアイの軍政期人権問題、政軍関係は大きく変化するものと思われる。
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