研究概要 |
マンデヴィル、デフォーから始まる18世紀の経済的言説においては、競争心(張り合いemulation)と困窮(pauperism)とが重要な位置を占めていた。マンデヴィルやヒュームは奢侈や虚栄、流行を契機とした経済のダイナミックな展開に着目した。また、マンデヴィルは怠惰さを助長するものとして救貧法を批判し、デフォーは能動的な人々が仕事の場に赴くことへの障害になるものとして定住法を批判した。これに対してスミスはemulationを働きすぎの原因として扱い、資本と労働の適正な移動を妨げるものとして定住法を批判した。スミスの場合、人間の活動性ないし怠惰を重視する18世紀前半の議論とは異なって、分業の進展に着目して富裕の増進を市場の構造として説明することに力点があった。ヒュームやスミスは文明史論的な観点で都市と農村との相互補完を含む市場の機能を「商業社会」論としてポジティヴに描いたけれども,1780年代になるとネガティヴな面に着目する議論が台頭した。マクファーレンは文明化による奢侈の蔓延こそが生産に関わらない上層の人々への富の偏在を招き、下層の貧困を引き起こすと描き出した。タウンゼンドは文明史論的な見方を援用し、それぞれの文明段階に応じた富裕の水準に適合的な人口が決まってくることを示した。タウンゼンドによると、救貧法が富裕の水準を上回る人口の生存をも可能にするから貧困の深刻化を招くとされる。このようなタウンゼンドの議論は、不平等、奢侈、および財産の蓄積動機を批判したゴドウィンの『政治的正義』および『探求者』を、人口論の観点から批判したマルサスの『人口論』(初版、1798年)において本格化される。1790年代のイギリスは、フランス革命の急進主義的余波の衝撃を受けて政治的緊張を孕む一方で、戦争や天候不順による食糧危機に直面していた。その後、マルサスは『人口論』を第6版に至るまで改訂した。第5版(1817年)において、ゴドウィンに関する章が一部削除され、それに替えて、当時の救貧構想の論客オウエンへの批判の章が登場する。オウエンは、貧困と無知の消滅した社会の実現のためには、生活空間および教育環境を整え、500〜2000人規模からなる農業・製造業並存型コミュニティーの構築が必要不可欠である、と主張していた。1817年でのマルサスの問題の関心は、不平等と箸移を批判したゴドウィンからオウエンへとシフトしたのである。
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