1997年7月、タイ政府による為替制度の変動相場制への移行を契機にタイの通貨バーツは急激な下落を始めた。それを契機として東南アジア諸国、そして北東アジア地域の国々への通貨下落が引き起こされた。この危機の原因については、当初、アジアの制度、組織の特殊性が市場を歪めていたことに問題があるとして、アジア型資本主義、アジア型経済の内的問題に関心が向けられた。そして、アジア経済の構造改革がIMF、世界銀行やアメリカ政府によって推進された。しかし、アジアに起こった通貨危機はアジアに止まらず、98年になるとロシアやラテンアメリカにも広がり、危機は世界的危機となることによって、危機の本質に関する新しい理解が広がった。世界的な資本の過剰流動化が注目されるようになり、それを規制する枠組みが議論されるようになった。国際金融制度改革の議論、提案である。だが、この提案はアメリカの強い反対にあって制度化はできないでいる。アメリカが反対する理由は、自由主義的グローバル化が世界の厚生を最大にするというものである。そのため、アジア諸国の採った政策は、国内経済の構造改革を行うものの、同時に、地域主義への傾斜、地域協力の強化によってこれに対処しようということであった。 1999年後半から、アジアにおける地域協力の制度化が急速な形で進んだ。「ASEAN+3」首脳会議の定期的な開催であり、そこでの各種の地域協力政策の展開、そして自由貿易協定(FTAs)の提案と交渉である。FTAはアジアの域外では、1980年代の後半からヨーロッパを中心に拡大し、アメリカ大陸にも波及していたが、アジアヘの拡大は、この通貨危機を契機とするものであった。通貨危機を通じて、国際経済は大きくヨーロッパ、アメリカ大陸、アジアの3極の地域主義の動きを加速させる役割を果たすことになったのである。
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