本研究『医療市場の誕生とその規制に関する歴史的・実証的研究:大衆消費社会における「市場と国家」のケーススタディ』は13年度中に、その調査を終えた。 本研究の基本的な目的は、世紀末のイギリスがいかに多様かつ「モダーン」な消費社会の時代に突入していたかを、とりわけ医療の現場におけるコンシューマリズムの浸透を示すいくつかのケース・スタディーを通して明らかにすることにある。これまで多くの経済史家・社会史家は19世紀とくに後期ヴィクトリア朝期のイギリスを、individualismの時代からやがてくるcollectivismの時代への過渡期と捉えてきた。古くはA.V.DiceyからDerek Fraserまで多くの歴史家が、19世紀末には肥大化し始める官僚制と中央政府の役割の増大を背景に、社会はレッセ・フェールと個人主義の気運を徐々に失い個人の福祉まで国家による規制と統制に委ねようとし始めたと論じてきたし、あるいはHarold Perkinのように、19世紀は医学や法律などの専門家集団がrespectable societyの中心を担うプロフェッショナライゼーションの時代であり、そこでもライセンスの発行や医師法・弁護士法などを通した行政の強い管理と規制が大きな役割を果たすようになったと考えてきた。後者の議論は、伝統的なジェントルマンの理念とモラルがこうしたプロフェッション社会の確立に大きく寄与したとする点で、最近のP.J.Cain+A.G.Hopkinsのジェントルマン資本主義の議論とも相通じるものがあるだろう。これらの通説をすべて否定するものではないけれども、19世紀末には医療、教育、法制度、レジャーなど様々な分野で、行政のレギュレーションの効力はむしろ急速に浸透する「市場の力」によって弱められていた。本研究は、とくに医療の分野に焦点を当て、(1)強まる消費社会の圧力が、健康を医者の権威の管理下に置くことに満足せず、市場に出回る数知れない健康器具・滋養強壮薬で買おうとする消費者を生んだこと、(2)営利目的の医療会社が生まれマーケットでの医療活動を始めたこと、(3)こうした医療の市場化が伝統的な医者たちとの摩擦を生んだこと、(4)健康を買おうとする消費者をターゲットにニセ医者が群がりでたこと、(5)多くの保険会社が医者を雇い医療検査を施して健康市場に参入しようとしていたこと、を明らかにした。
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