1.18世紀末以降にヴォルガ流域および南部に大量に入植したドイツ人は、ロシア人農民が怠惰であるのに対して勤勉で道徳的であり、農業経営も効率的であると評価された。しかし、所詮、彼らは大国ロシアに住む民族的少数集団であり、ロシア人からは「特権的な無用の寄生物」として反感を買い、そして、帝国の近代化・第一次世界大戦・社会主義革命・スターリン体制・第二次世界大戦・ソ連崩壊という歴史の激動のなかに巻き込まれ、強制移住などの数奇な運命を辿った。そこには常に「ドイツ人問題」が存在し続けた。(研究成果報告書「序」」) 2.エカチェリーナ2世の外国人誘致の布告(1762年12月4日、1763年7月22日)に応えて、ドイツ各地では、ロシア側の公的徴募官と民間徴募業者を介して、ヴォルガ流域への移住の動きが現われた。リューベック、ハンブルクからペテルブルク、ノヴゴロドへ向かい、そこから陸路あるいは水路によってサラトフに到着した移住者は、しかし、約束されたパラダイスではない荒野において、苦難の入植生活を始めた。(第1章) 3.サラトフ県のガルカ村は、ドイツからの第一陣の入植地であり、1764年の人口は194人であったが、1849年に1814人、1888年に2709人、1910年に3426人という推移をみせ、ロシアに伝統的な共同体的割替土地利用を早くに導入した農業経営は、かなりの収穫を得ており、20世紀初頭には7圃制を採用していた。(第2章) 4.1921-22年にヴォルガ流域を襲った飢饉によって、ドイツ人入植地のほとんどの住民が飢えに苦しみ、大量の餓死者が出た。ドイツ人州は中央政府と困難な交渉を続け、飢饉と闘った。子供の疎開、国内からの食糧援助、そして「アメリカ援助局」、「国際子供救済同盟」その他の外国組織による食糧援助が行なわれ、飢饉克服への道が開かれた。(第3章)
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