明治期の徳島県における人口移動(流出)において、その規模の大きさで注目されるのが北海道移住と九州出漁である。西日本最大の送出県となった徳島からは、明治30年代に旧藩主蜂須賀茂韶が創設した農場への「団体移住」にはじまり、30年代後半以降は藍作衰退を背景に、大量の窮乏農民が北海道に渡った。こうした移住者を勧誘・組織した農場経営者のなかから、阿部興人・滝本五郎兄弟に代表される企業家が誕生した。 他方、九州出漁は、同県南部の漁民達が、不漁を背景に明治20年代から「出稼」型の出漁を開始し、大正末期には底曳網漁業へと漁法を転換させ、東シナ海・黄海を漁場とする「以西底曳網漁業」の発展を主導した。昭和10年前後に、漁民及びその家族6千人が、長崎・福岡など九州各地の根拠地に分散・定着するが、その選択を規定したのが「同郷集団」であった。さらに、有力漁民は、「同郷集団」の有する規制力に基づく、いわゆる「阿波型」経営によって企業家へと発展を遂げた。 このような徳島からの北海道移住と九州出漁は、同郷集団が強い団結力と規制力を有し、移住者のなかから企業家を生んでいる。今年度の研究では、これまで収集した資料のパソコンへの入力を行い、データベース化と分析を進めた。その結果、これら徳島県出身の企業家間には強い同郷意識が存在し、協力関係が構築されていた。さらに、彼らは同郷の有力政治家を介した人的ネットワークを有効に活用することによって、ビジネスチャンスを獲得・拡大していた具体的な様子が、阿部興人の日記を分析することで、明らかになった。
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